昭和46年 1月31日 朝の御理解
御理解第45節 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭を下げることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎはうたれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つ事はあるまいと思うけれど、大声で叱ったり手を振り上げたりすることはないが、油断をすな。慢心がでるとおかげを取りはずすぞ。」
私昨日、( ? )なんげなしこう見せて頂いておりましたが、こんな事が書いてありましたから、( ? )。「いかに生きるか、いかに助かるかと言う事を、問い続けてここにその助かり方、生き方について確信をもってこの問題に、立ち向かうことは金光教信奉者の・・・」ここで破れておりましたから分かりません。これを私読ませて頂きてからね、「いかに生きるか」と。「いかに助かるか」と。言うことを問い続けてきて、ここにその助かり、その生き方について確信と喜びをもって生活が出来る。この問題を( ? )かくと言う事は、金光教信奉者のまあいわば責任といったような意味の事が書いてあったのじゃなかようかとこう思うのです。私共がいかに生きてきたか、いかに助かって来たか、とまず思わなければならない。ね、そしてその助かりを知らず、その生き方が間違っておったことをまず分からせてもらう。信心させて頂いていかに助かるかと、そこで、そうした生き方助かり方の上に、確信と喜びを持っての助かり方、御道の信心によってのそのような助かり方が出来れる、ね、その事をです、持って世に行こうと言う事、いわゆる示して行こうと、またそれを人に伝えて行こうと、いう、よういう私は生き方がなされなかればならんが、本当に金光様の御信心を頂いておっても、本当に金光様の御信心ぶりによっての生き方とか助かり方をしている人が本当に少ないように思う。今朝から頂きます所が、この45節ですが、ただ今拝読させて頂きました、45節、この様な生き方があるんだと言う事です。このような助かり方があるんだ。一番最後の所に油断をすな、慢心がでるとおかげをとりはずすぞという所がありますがね、( ? )の場合は慢心が出とらんようにあっても、いつかはやはりこう慢心がでたり、思い上がりがでたりして、おかげを取り外すようなことがありますけれど、おかげを取り外してもです、おかげを落とさなければ分からない所があるという事。そこからかえってのおかげというものを頂かせてもらうような生き方なんです。そこん所がこの45節でございましょうね。おかげを取り外さんようにと言う事。例えば取り落としましてもです、金光教の信心は素晴らしい、このように助かる事が出来る、このようにおかげを受けることが出来る、このようないわば、ひかえのある生活をさせて頂けるんだと、もう( ? )なるほどしに有り難い、もったいないといういきておるようでありますけど、そこが人間、おかげを落とす事がある。いわば慢心が出る事がある。私が、北京から引き上げて帰ってきて参りまして、当分の間のおかげの頂き現われ方とでも申しましょうかね、おかげを勿論、熱心でもありました。またおかげも本当に置いたものをとるような見事なおかげも頂いておりました。もう私の話は、先生方のお説教の材料になる、また、私にお話に来てくれというてあちらこちらから、いわれてお話に参りまして、それこそ皆が拍手喝采で聞いて下さった時代があった。有り難い勿体無いでだったつもりだったけれど、それがやはり慢心が出ておる、思い上がりがあった、そしてまあいうなら見事におかげを落としてしもたかに見えた。まあいうならどういう事になりましょうか、橋を渡っておった、所がその手すりが壊れておった、それをきずかなかった。ね、歩いておった。と。そしてもう、横やりでもいけるような神様のおかげというものを人にも聞いてもろうて神様のおかげとはこんなもんですよと、あなたがた何年信心しよなさるですか、こういうおかげを頂ける神様を頂きながらと言ったようなことを本気でこう言っている。そういいながら、手すりの壊れたところから真っ逆さまに川に落込んでいる。それからが私の本当の修行が始まったというて良いくらい。おかげを落とすと。この45節にない所をいいよるでしょうね。慢心が出るとおかげを取り外すぞとおっしゃる。私は本当に思うのですけれどね、一つ本当に金光様の御信心をさせて頂くならね、少し慢心の出るくらいなおかげを頂かなければだめです。ね、慢心しなければおられない程しのおかげなんです。でないと神様の本当の働きというものを、身に感じる程しのおかげはない。ただ、行き当たりばったりのおかげではいかん。それこそ、人が見あげる程しのおかげを頂かないけん。人がうらやましがるぐらいのおかげを頂かないけん。そしてそこからよし、高い所から落ちてもです、私はその時に思う、落込んだんだ、だからこのままぬれねずみになってから這い上がるようなことじゃでけんとこう思った。せっかく落ちこんだのだからね、やはり両方にそれこそ鯉二匹ぐらいは抱えてからねあがらなじゃこて、上がられんと思うてそれから頑張った。そういう生き方なんです。いうならば転んでもただでは起きらん、という根性なんです。あたりもせな、触りもせんといったような生き方ではね、先日私はある先生のお手紙の、ある方に来ておるお手紙をここで見せて頂いたな中に、布教に出られて何十年なる、まあ、大したおかげも頂いていないというかたのお手紙の中に、「泣きもえず、飛びもえづして、ホトトギス」かなんかていう事。ね、何十年間信心させていただきよるけれども、いわば、飛びもきりゃな、泣きもきらんけれども、まあおかげを頂いておる人が、あんた金光様の御信心させて頂きよって、何か良いことがあったかと人に問われたら、別になんとこうおかげは頂きらんけれども、一生楽はせんぞといったような心が出来たようなことが有り難いというて、人に私は応えるだろうというような事が書いてある。成程、泣きもきりゃな、飛びもきらんと言う事になるわけです。だから、私はそこん所をですね、金光様の御信心はそれではいけないとこう思うのです。それは人がたまがるような、例えばおかげを頂かしてもろうて、それが人間、それは私決してその慢心しよるとか、そのどうと言うことではないけれども、私共は慎み慎みね、喜び喜ばして頂きよるようにあっても、その喜びの中に慢心があることがある。そこに、人間ですから油断がある。いやまた、神様は慢心させて、おかげを落とさせてそして、よりおかげをくださるというようなお働きを下さるというようなお働きすらある事を私は感じる。わざわざ神様が失敗させてね、そこから、その失敗はより成功のものにさせてくださるような働きを私自身感じて、ね、そこで私は折角信心させてあるであるから、さわりもしなければ、あたりもせん、と言ったようなことではなくてです、もし、おかげを落としてでもそこから、落込まなければ分からない、所を分からせてもろうて、おかげを頂いて行く、生き方を体得していかなければならない。まあ、これは一番最後の所をこう申しますとね、ですから、これはだいたいまあ、ね、神様そういうおかげを落とすような事あってはならないと、言って教えて下さってある御教えですから、本当はねいわゆる実意丁寧神信心させていただいて、それこそ、実れば実るほど頭の下がって行く信心、それがだいたいは本当である。ね、それがずっとうなぎ上りにこのおかげを頂いて行くと言う事がいよいよ本当の事であります。「世に三宝様を踏むな、三宝様を踏むと目がつぶれる、というような、三宝様実るほどかがむ」と。世に三宝様と言う事はここにかっこして訳が書いてあるのですね。穀類の事。例えばお米やらそういうような物。麦わらのようにですね。私共子供の時に、畳の上に落ちました御飯粒でもですね、拾うて頂かんとね、あの、目がつぶれるとか、足が( ? )つくとかちいうてから、おば達言いよりました。そげんいうてから畳の上に落ちとるものでも、子供がこう散らかして一つでもこうやっぱり拾って頂いておりました。今までもそげな( ? )事をしてはちいうてから、もうそういう人が少ないですけれども、そういう意味なんです。ね、ですからもちろん穀物というものは、人間の命の元ですから、大事にしなければなりませんが、私共の心の糧と申しましょうかね、いわゆるまあ、命の元というてもよいでしょう。信心で言う所の私共の心を支えて下さるものというかね、三宝様と言う事は私はいわば、私共の世の宝と言う風に頂かなければならんと。所がです、どうぞ、まあその宝を宝と気がつかなんのです。その宝というのはね、何かその例えば金なら金、ダイヤならダイヤといったような、露出してそこにこういっぱいあるというようなもんじゃないでしょう。人間ですね、私共が本当におかげを頂きたい、そういう宝はね、いうなら本当に人のきずかん所。または、いうならば汚い所。これは、あの宝探しなんかやります。その( ? )宝の( ? )ついとっとやらはそげん( ? )の所に( ? )おいちゃなか。もう出来るだけ人が扱わん所やらね気のつかん所とかにかくして置いてあるように、私共が芯にこの宝にふれたいと思わせて頂くならね、実意丁寧にどのような所にでも心を( ? )かせてもらい、心を掛けさせて頂いて、そこに宝が隠れていることを悟らしてもらう信心。それを教祖様は信心する者は、肉眼をおいて心眼を開け教えて下さっている。心の目をもってそれをせんとそれが分からん。ところがなかなか始めの間はそれが分かりません。先生難儀な事が起こりましたというてお取次ぎを願われる。本当に難儀な事かと思ったら宝のごたることを難儀ちいいよなさる。その人、それは私がそれだけ分かるから。そりゃあんたおかげじゃんのここを本当有り難く頂いたら先がどういうおかげを頂くか分からんよというような事を、困った事だ、悲しい事だというて皆さんがお取次ぎを願われる。決して困った事でも悲しい事でもない。その事はもうそれこそ三宝様のように有り難いものである。わたくしは昨日、昨夜の御祈念の時に聞いて頂いたんですけれども、昨夜夕食を頂いて休ませて頂いた。お夢を頂いた。「それはあの、椛目に妹が妹達親子が月の世界に旅行しとるち言う事。それで、丁度そのあちらの声が聞こえるけん、聞きなさらんかちいうてから、私だれかその電話機のようなものを持ってきましたからね、私それを耳にあてましたら、耳音にね笑い声が聞こえて来るんです。月の世界から。電話機( ? )。もうその笑い声というのが、もう有り難いというてよいか、勿体無いというてよいか、まあうれしゅうていうてよいか、楽しゅうていうてよいかそういうよいもの全てがその笑い声のなかにあるような、声で高笑いしておる所の声が私の耳に響いてくるんですよ、お夢の中で。まあ今日の御理解で言うならね、先ほどの古新聞に書いてあったという、「いかに生きるか、いかに助かるかと言う事を問い続けて来て、ここにその助かり方を確信をもってもう、こういう生き方以外にはないんだよと分かった。そこから喜びが湧いてきた。もうこういう生き方があるのに、どうしてわざわざこんな腹が立ったり苦しかったりというような生き方をするだろうかと思うような生き方をしている人が世の中あまりにも多い。妹の事いうておかしいですけれども、もう十何年お参りして( ? )。ある(郵便?)、あちらに何十人ちいうて大きな郵便局ですから、があられるんですね。それこそもう池尻さんがたは馬鹿じゃなかじゃか、なんでん、人が悪か何でんいやすいません私が、ちいうてからいわっしゃる。もう池尻は馬鹿じゃなかろうかと皆で言いよったけれど、馬鹿のはずの池尻さんが一番幸せのように見えますち。ね、それで池尻さんはどうしてそういう事になっておるかといったらなるほど金光様の御信心を頂いておられるげないうて、話にその時熱心に参ってきた方ありました。その事から。ね、そういう生き方をたとえば妹は体得しておる訳なんです。こういう生き方があるんだと。金光様のそれこそ神様だけがみてござるご承知の世界に生きるにはこういう生き方があるんだと。これは妹がもうしますけれど、あげんよか人ばどうしてあげん皆悪口いいなさっちゃろうかち、( ? )。もうとにかく私妹の周囲には悪か人はいっちょんおんなさらんわけです。もう、観音様や菩薩様ばかりのごたる感じです。あげん良か人ばどうしてあげん悪いいなさるじゃろかとそういう生き方なんです。それがその、まあ、完璧とか立派にというわけじゃないけれども、そういう生き方をね体得して行く。もうこれは、( ? )二人でありますけれど、もう本当にです、誰かがおもてにあの御野菜を持ってきてくれとる、色んなものがね、詰めてあるのです、おもてに置いてある、帰ってくると置いてある、だけどどこから頂いたか分からん。誰にお礼を申して良いか分からん。だから神様にお礼を申し上げる他にないわけですけれども、それこそ野菜を一本も買った事がないち。ね、そういう生き方があるんです。ね、そういう生き方がいよいよ御徳を受けて行く生き方と、御徳を受ける時になった時の、姿がね私は昨日昨夜、夕方あの、月の世界からといわれる、笑い声というそういう素晴らしい生き方がだんだん、育って行く。いけるのだと私は思わせて頂いた。私はつきのせかいと言うから、つきのせかいというのはこの頃人間が行ってみて( ? )分かっとることですからね、そげんよかとことじゃなかろうごたる風です。けれども、あの世というわけでもなかろうごたる。そこでこの月の世界というて下さったことは、ね、もう一つの世界という意味だろうと思います。私共が行きて行くうえで、こういういうなれば苦の世苦の世界というのがここにあるけれども、この世界のなかにもです、もう一つの世界がある。ね、それを私は教祖がおっしゃる、肉眼をおいて心眼をひらけよとおっしゃる、肉眼で見る世界ではない、心の目を持ってする世界があるということだとこう思います。ね。心の目を開かせてもらう事によってです、悲しい事とか腹の立つ事というものは、いや、むしろそれは神様にお礼を申しあげればならない事である事がはっきり分かる。だからいつもニコニコしておられると言う事になるのじゃないでしょうか。この問題に向かう事は、金光教の信奉者の一人一人がこういう生き方があるんですよ、こういう助かり方があるんですよと助かっていく自分の姿を見てもろうて、世に問うて行くことはお道の信奉者の私はこれは責任でもあると言う風にめいめいが感じなければならないのに、なら果たして私共はどのような生き方をしておるだろうか、あまりに苦しい事が多すぎる、あまりにずるい人やら悪い人が自分の周囲に多すぎる。そこに本当にまだお道で、御道の信心でいう、肉眼をおいて心眼を開かせて頂けれる、世界に住んでいないと言う事が分かる。そこでです、私共が日々実意丁寧神信心をさせて頂く事によって、世の三宝様、大事なものをもっともっと大事にしなければならないという事をここでわからなければいけないと思うのでございます。まあそのようにして、生き方をですね、こういう生き方というて生きていながらもです、そこが人間であって生身をもった私共ですから、いつ又神様からお叱り頂くような事になるかもしれません。そこん所を一番始めに申しましたですね。一番最初の所に、「油断をすな、慢心が出るとおかげを取り外すぞ」と教えられる。そこで私は今日は、その、取り外してもいい、一遍落としてしもうてもいいけれども、神様の本当の働きを分からせてもらうためにこのようなおかげが頂けるのだと慢心が頂ける程しのおかげをね、一遍頂いてみなければいけない。そして、例えば取り外してしまっても、例えば落込んでも、それは( ? )で上がってくるといったようなものではなく、ね、しっかり信心の根性を持たせて頂いてから、ただでは起きらんぞと、ね、落込んだのだから、せめて、鯉の一匹でも、二匹でもたとえばこう抱えて上がってくるぐらいな、おかげを頂かなければならんと言う事を申しました。そこで私はここ二、三日毎日夜に聞いて頂いております、教祖様のお言葉であります、教祖様がだんだん、の基に人があつまり、人が助かるようになった。しかも、もうびっくりするような事おっしゃるもんですからね、世の中がかき乱すという、いわゆる、日柄方位は見るに及ばんといったようなね、事を言われる、だからそういうような事を、職業としておった( ? )ですね、いうなら山伏、しゅけんじゃといったような人達が、その押しかけてきてですね、それこそ暴言を吐き掛ける様なことではない、それこそ、危害を加えんばかりに御広前をあらした事がありました。教祖の御伝記にあります。その時にお頂きになったと言われる、この神様のお知らせであります。こういう生き方、何事も神の理解を承り、しょうふくいたせば安心なり。神仏とも喜ばれ、親大切、夫婦仲よう内むつまじゅういたし候。何事も世話苦にいたすな。実意にいたし恐いものなし。どのような事ありても逃げる事なし。何事も人を頼むというような、と神からお知らせありという生き方。ね。この様な例えば生き方をです、私共がさせて頂くならどのような事が起きてくるか分からん。けれどもその時はお取次ぎを( ? )。ね、そしてお取次ぎを頂いてそれほど心配する事じゃないじゃないの。腹立てる時じゃないじゃないの。こういう訳じゃないのと、理解に承る。その時にしょうふくいたせば安心なり。はあ、そうですねと分からせて頂いたら、神仏がまず喜ばれる。そういう心になった事。そしていよいよ親大切夫婦仲よう内むつまじゅうに、という生活に焦点をおいての生活。そういう生活を繰り返されて行く所からです、私は肉眼をおいて心眼を開かせて頂く事に出来れるおかげがうけれられる。次に例えば困った事が起こってもです、これは神様の御神意、御都合に違いはないと頂けるようになってくる。例えば私妹の話をしますけれど、( ? )そういうような程度の所じゃなかろうかと。ね、心眼が開けとるというわけじゃないけれど、お取次ぎを願わせて頂く、どういう問題でも、ね、お取次ぎを頂いたら、親先生が右とおっしゃったから、左とおっしゃったからとそこん所頂いて、いくという稽古が出来ておるという程度じゃなかろうか。ね、それが、だんだん確信ともなり、喜びともなって、おかげを頂いて参りましたら、ね、肉眼をおいた世界、いわゆる心眼を置いた世界にすむ事が出来、お徳を受けてです、昨日私がお夢の中で聞かせて頂いた、あの世からでもない、この世からでもない、いわゆるこの世にある、もう一つのいわゆる次元の違った世界からです、聞かせて頂いたのであろうと思う、それこそ、有り難いやら、もったいないやら、うれしいやら、喜ばしいやら、なにやら分からん、その、一切をふくまえておるような、笑い声も聞こえてくるような、今日はまあ、いうなら、極楽の世界とでも申しましょうか、ね、そういう世界がこの世にはあるのだと、私はね、私共が体験させてもろうて。この問題に立ち向かう事は金光教信奉者のまあ、これは務めである、責任である、というくらいな所まで私共の信心を高めていかなければ、ならん。ね、( ? )御神前に座らせて頂いて、もう、本当にねお礼を申し上げても、お礼を申し上げても足りないほどしのおかげを頂いている、これは私だけではない、信奉者全部のことを思ってそれを思う。かというてまた、どこまで、どれだけお詫びをしても、お詫びをしても、尽きぬほどしの、私共である、事実も突き止めてある。ね、そういうおかげを頂いて、または、そういう、深い深い、お詫びをしなければならない程しの、私共だけれども、まだ願わなければならない事があまりにも多すぎるくらいにある。しかも、おかげでこの頃は、その願いがねおんなし事ではなくて、だんだん、人の事世の事が祈れれるようになる、願いというものは尽きる事がない。その願いがだんだん大きくなって行く。果ては天下国家の事までも祈らせて頂ける程しの、おかげがだんだん心の中に大きく育って行っておる。そういう例えば願いがね、自分の手もとの所から、少しずつでも、実現して行く、そういうおかげが現していくことが出来れる、おかげを頂くために、今日の御理解45節の所に御道の信心者、信奉者の、いうなら、生き方。同時に助かり方、を求め求めしていかなければならない。その家庭に置いては、慢心がでておかげを取り外す程師のことになるかもしれないけれど、なく事もできなければ、飛ぶ事もできないよりはまだましである。そこから、大きな、出なければ頂けないおかげをいただかしてもらう。そういおかげを、( ? )していく、世の中に現していくおかげを、お道の信心をさせて頂くとこういう助かり方ができます、こういう生き方があります、ね、自分のみをもってかぞくのいえを持って、それを世の中に示していく生き方、どうぞ世のお役にたたせて下さいという祈りとか願いと言うものがね、そのような所から表されなければならんと思うですね。 どうぞ。